【私訳】PERSPECTIVES_ON_MARKETPLACE_MINISTRY ?

1.The Kingdom, the Church and the Marketplace

●What is the Church

 「教会」という言葉はギリシア語の「エクレシア(Ekklesia)」という言葉が語源になっている。その言葉が文学的に意味するところは、「何かのために召し出された人の集会や集まり」である。

 ※Ekという接頭辞が意味するのは英語でいうところの「out of(中から外へ)」。Klesiaは「call out(招集する)」を意味するkaleoというギリシア語から来ている。

 つまるところ、「教会」は「招集された人達」を意味する。初代教会は、自分たちのことを、神の召命を世界に実現するために呼び出された人々として自認していた。ペンテコステの日以降、神の民達は「a come and see(来て、出会う)」から「a go and tell (行って伝える」にマインドがシフトしたのだ。

 しかしながら、中世になると信者たちは、「教会」という概念を、神聖で崇高な使命を持つ集団というよりは、人々が何か宗教的な行為を行うための場所として考えるようになった。信徒の関心事が「教会になること」から、「教会に通うこと」に移っていったのだ。そこで、神は16世紀に宗教改革指導者を建て上げた。それは、私たちを本来の、根本的な教会の目的に立ち返らせるためであった。

 その宗教改革指導者の一人は、当時若い神学生であったWilliam Tyndale(ウィリアム・ティンドル)である。彼は自分の人生を、英訳聖書を作ることに捧げた。そのことにより、生ける神の言葉である聖書は、一般的な人々にまで広く読まれるようになった。祭司だけが聖書を読める時代は終わった。

 ティンドルは、「エクレシア(ekklesia)」という言葉を、church(教会)ではなく、congregation(集会・改修)と訳した。理由はハッキリしている。彼は人々に、教会を何か宗教的な行為を行うための場所ではなく、自分たちが主体的に参加する集団として捉えて欲しかったからだ。当時の教会の権威者たちはそういったティンドルの考えをひどく嫌い、異端者・反逆者として捉えた。そして、彼は火炙りの刑に処されたのである。

 ティンドルの最後の言葉は「主よ、英国の王目を開いてください」というものであった。彼の殉教の三年後、神は彼の祈りに答えた。ヘンリー?世は、全ての教区の教会が英訳聖書を教区民に解放することを要求したのであった。60年後、ジェイムス王は新しい聖書の訳を作ることを命じた。それは、今日KJV(欽定訳)聖書として広く知られている。

 では、結局のところ「教会」とは何なのであろうか。それは、神によって召し出され買い戻された人々の共同体であり、その目的は、御国の福音を全世界に宣べ伝え、すべての国民にあかしすることにある。そうして、終わりの日が来るのである(マタイ24:14)

●What is the Marketplace

 Marketplace(市場)という言葉は、「福音書」および「使徒のはたらき」において「アゴラ(agora)」というギリシア語で何度かにわたって、登場している。「アゴラ(agora)」は講話や議論に始まり、商業や法的な取引といったすべての社会的交流がなされる場、もしくは人々の集まりを意味する。以下の引用に見られるように、marketplace(市場)とは、言うなれば今日における「村の広場」のようなものなのである。

使徒16:19  「彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場(marketplace=agora)へ引き立てて行った。」

マタイ11:16 「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場(marketplace=agora)にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて……」

マルコ6:56 「イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場(marketplace=agora)に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。」

ルカ11:43 「忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、会堂の上席や、市場(marketplace=agora)であいさつされることが好きです。」

ルカ20:46 「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場(marketplace=agora)であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。」

 聖書著者が 市場(marketplace=agora)という言葉を使う時、シナゴーグのような宗教的建造物をイメージしていないように思われる。

使徒17:17 「そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場(marketplace=agora)では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。」

マルコ7:4 「また、市場(marketplace=agora)から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。――」

マタイ20:3 「それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場(marketplace=agora)に立っており、何もしないでいた。」

マタイ23:7 (律法学者・パリサイ人は)「広場(marketplace=agora)であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。

 これらの記述から市場(Marketplace)とは、単純に言えば、「人々が教会の外で他者と対話したり、商業的な取引をしたり、何かの働きに従事したりする場」であると定義づけることができるであろう。市場(marketplace)は必ずしも働く場であるとは限らないし、雇用や収益と結びつくとも限らない。むしろ、市場(marketplace)という場は時間、そして人々が持つ興味と密接に結びつく。というのも、市場での活動は、全て本来は自発的なものであるからだ。そして、その市場での活動は必ずしも「場」という要素とリンクするとは限らない。今日においては、インターネットによって提供される新しい電脳空間という世界がある。そこでは人々が意見や考えを交換したり、ある特定の問題について話し合ったり、ビジネスの取引を行ったり、一つの社会が形成されているのである。