藤沢周 著 「サラバンド・サラバンダ」を読む

藤沢周  著

サラバンド・サラバンダ  

新潮社 刊  2016年  4月 四月  第一刷  203頁

明滅

草屈(くさかまり)

分身

案山子(かかし)

燼(もえぐい)

錵(にえ)

未遂

あなめ

禊(みそぎ)

或る小景、黄昏のパース

あとがき

このあいだ著者の「界」という作品集を読み下のように記した。 

https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/65740078.html

実はそれを書いたとき本書を読了しており、感想文を記している時に「界」が本書の印象と幾分か違うのを感じていた。 当然、作家は連作でない限り同じように書くわけではなく構想、文体に留意しないわけはないから違って当然なのだが、それにしてもここでこれらの違いは何なのだろうかと思案した。 

本書収録の各短編の初出は2010年から2016年までの雑誌「新潮」だとある。 「界」では2013,2014年雑誌「群像」初出とあったのだから本書執筆の期間に大分幅があったことが分かる。 「界」ではそれぞれの短編がほぼ同一人物が主人公になっており短編をまとめたときにはほぼ一冊の物語と読めないわけではないような体裁になっているのだがそれでもその内容に手触り、肌触りの違いがあるように思う。 一つには「界」での感想文に書いたのだがオスとしての主人公が現前していることだろうか。 そうすると本書ではそれが無いのかいうとあながちそうとはいえないものの「界」ほどオスが前面にでない、ということかもしれない。 そうすると何が前面もしくは主な舞台にながれているのか、ということになる。 著者は帯に「あとがき」から引用した文を次のように記している。

電車の窓からふと見えた、プラチナ色の積乱雲。 アスファルトの路面に、転がり舞う枯葉の音。 雪が降りだす前に、空から静かになびき流れてくる清澄な匂い、、、、。 そんな一瞬に、すでに中年になった自分がつかまってしまうこともあるのか。 10代の若い頃ならまだしも、50も半ば過ぎだというのに、他愛もない景色の断片に触れて、唐突に慟哭し、悶えたくなることがあるとは ー−。 朧に見え始めた人生の地平線を見据えながら、それでも生きる、愛する、表現する、人々の悶えや感情の様々な姿を描いた。  或る風景や言葉や音などにつかまって、世界の無限性にたじろいでいるのは、むしろ作者自身の姿であるが、主人公たちと共に感じ、考えながら、少しづつ本当の美しさや寂しさに近づいていく足取りになって来ただろうか。 「あなた」であり、「彼」であり、「彼女」であり、「私」である物語が、読者の皆様に届くことを祈っています。 「あとがき」 より

行っていないはずの葬儀の香典返しが届く奇妙な「明滅」、ただ荒れ果てた別荘の雑草をチップソーでひたすら刈る「草屈」、同窓会に行く「分身」、実家で死んだカラスを処理するのときの父との交流譚「案山子」、先斗町の分かりにくい飲み屋での「燼」、定年後図書館に通う男の話「錵」、失踪した友人の家で「遺品」を整理する「失踪」、謡の先生の葬儀からもどってきたオンナとの情事譚「あなめ」、癌で死にゆく友人を病院に見舞う「禊」、新幹線の窓から野の白鳥を眺めているうちに次々に思い出される自分の子供、自分が子どもだったときの父との思い出の断片が連想する「或る小景、黄昏のパース」と噺は紡がれていく。 藤沢の常にあるように、またあとがきにも示されているように、50代半ばの男、新潟でそだち、しばしばそこに戻りその鉛色、風の吹きすさぶ景色の中で想いを反芻する男が登場する。 それぞれの主人公は本作では直接つながりはないけれどそれぞれの短編には共通したものがあるようで、それは作者があとがきで述べている。 短期間に藤沢の著作を二冊読み、自分は本作の方により親和力を感じた。 それは話の中にオス・メスの匂いが背後に下がっ

た分、それぞれの背景にあるモノや蘊蓄のようなものの匂いが起ち上って来て風景に混ざり、藤沢の言う「美しさや侘しさ」に我々の意識を誘うべく働きかけているからだろうか。